設立のきっかけ
「令和」の元号が、日本の国書、しかも『万葉集』という歌集から出典したことが大きな話題になりました。日本の今までの元号は、すべて中国の国書から出典していたからです。
『万葉集』は日本最古の歌集で、4516首もの歌が集められています。7世紀後半から8世紀後半の、天皇、官僚から農民、防人まで、日本で生きていた多くの人々の歌を、身分の別なく集められたものであることが特徴です。
その時代の日本の暮らしや風景が描かれ、また人々の気持ちがストレートに吐露されている万葉歌から、私たちの先祖の大切にしていた文化、精神が伝わってきます。時代を経て変化したものが多くある中、家族や子供、愛しい人を思う気持ちは昔も今も変わらないのだ、ということも発見します。
大亦観風は、明治から昭和初期の日本画家です。『万葉集』を愛する歌人でもあり、その時代にできる限りの『万葉集』研究を極めた人物でもあります。
2000年(平成12年)再版
『万葉集画撰』
『万葉集』から71首を選んで、歌の情景を書を添えた日本画で表現した連作『万葉集画撰』は、絵画作品としても味わい深い作品ですが、万葉歌の内容も深く研究、解釈して描かれています。必ず現地に赴き取材、スケッチをし、時代考証を行い、決して自身の想像だけで描くことはしませんでした。
大亦観風は、絵画と文学、その両輪で『万葉集』にアプローチできた作家として唯一無二の存在だと言えるでしょう。
昔からその国に伝わるお話や歌は、その国の文化や国民性をとてもよく表すもの、と言われますが、私たち日本人にとって『万葉集』は自分たちのルーツを知る貴重な歌集です。その万葉歌が、どんな情景を詠んだ歌なのか、絵からも味わえる『万葉集画撰』は、日本文化を学ぶ貴重な助けでもあります。
『万葉集』に描かれた、美しい日本と日本人の心を、受け継いでいきたい、と強く思ったことがこのWebギャラリーを設立したきっかけです。
観風の息子 博彦と、妻 美保子の活動
アトリエりざん設立の大きな基盤には、観風の息子である博彦と、その妻 美保子の活動があります。
戦後の混乱期に埋もれてしまった観風の画業をなんとか掘り起こそうと、諦めずに活動を続け、観風の画の所有者やお寺を探し出して遠方まで会いに行ったり、所縁があると聞いた場所を訪問したり、想像を絶する地道な作業を重ねました。その時代の書簡や資料は達筆な草書体がほとんどで、知識なくしては一行を読むことすら難しいものです。二人はそれらの解読にも、膨大な時間をかけていました。
二人は、錦城出版から刊行された『万葉集画撰』を、全作品をカラーで再編し出版したいという悲願をもち、色校正を繰り返し、文学博士らの解説文の旧漢字を現代の文字に置き換え、膨大な仕事を成し遂げて2000年(平成12年)に奈良新聞社から再編版の出版となり、二人は一大事業を成し遂げました。
その行動力の裏側には、生き様がまっすぐな観風の息子としての誇りと、父親の画業をこのまま埋もれさせてはいけない、この芸術をいつか必ず世に出してあげなければいけない、という決意がありました。
戦後の日本、博彦が大人になるまでは、まず、家族で生き抜くことが課題であり、戦争で親を失った多くの人と同様に、博彦の苦労も大変なものでした。それでも、教育を大事にしていた観風の元で育った博彦は、芸術と学問に対しての情熱を失うことはありませんでした。
次第に人と人がつながり出し、大亦観風について調べている、という教授や学芸員が現れ始めます。埋もれかけている芸術を掘り起こしたい、という熱意ある方々のお陰で、次第に観風はその姿を表し始めます。死後何十年もたってからのことです。
その後、次第に芸術的価値を認められるようになり、和歌山県立近代美術館、奈良県立万葉文化館に作品が収められ、「大亦観風」の名前で展覧会を開いていただくこともできるようになりました。
アトリエ りざん 由来と目黒大圓寺
りざん 驪山 は大亦観風の戒名、太逸庵驪山観風居士からつけられました。
戒名をつけて下さったのは、観風の恩人であり、短歌をともに詠み、絵においては門下生であった、目黒大圓寺の福田実衍住職です。
観風の制作活動は、東京の目黒の自宅を中心にしておりましたが、大圓寺もその重要な場所のひとつでした。福田実衍住職は芸術に高い関心と深い理解をお持ちの方で、文人墨客が集まる場、芸術談義をかわすサロンとして、お寺を開放してくださっていました。大圓寺は画家、書家、歌人、詩人の、多くの出会いと作品を生みだす場だったのです。
観風にとって大圓寺は、彼の芸術を育て、守ってくれたかけがえのない場所です。
1947年(昭和22年)10月22日に53歳の生涯を閉じた観風の葬儀は、同月28日、大圓寺にて叙情短歌社同人である福田実衍住職によって執り行われました。
境内には、観風の描いた西運和尚碑※が今も阿弥陀堂を見守るように立っています。
西運和尚碑
※西運和尚碑
大圓寺に眠る僧 西運の修行する姿を描いた石碑。西運は、八百屋お七の恋人 吉三。
1683年(天和3年)お七が吉三会いたさに自宅に放火する事件を起こし、その罪で火炙りの刑となる。吉三は剃髪しお七の菩提を弔うため、供養に一生を捧げた。石碑は風雪に耐えて念仏一万日業を行う西運の姿を描いたもの。大圓寺には観風作 未完の「念仏聖 西運絵巻」が保管されている。
アートディレクターあいさつ
長塚 ゆみ子(旧姓 大亦)
ながつか ゆみこ
2019年5月1日、新しい時代、令和が始まりました。「令和」の出典は 大伴旅人 太宰府梅花宴の歌の序文です。
その梅花宴のシーンを、令和のおよそ80年前に、祖父 大亦観風が、書を添えた日本画作品として描いておりました。日本画家であると同時に、『万葉集』をこよなく愛する歌人でもあった祖父が、どうしても描きたかった万葉の世界、71画面の内のひとつとして、です。
この絵は、10月22日の天皇陛下即位礼正殿の儀を記念して、「令和と万葉集」切手シートの絵柄に選んでいただく幸運にも恵まれました。
『万葉集』ファンの方々には親しんでいただいていた大亦観風の作品を、令和を機に、Webギャラリーで多くの皆様にご覧いただき、日本最古の歌集『万葉集』の世界に親しみを感じていただけたら大変うれしく思います。
大亦観風の孫に生まれて
大亦観風という日本画家、アララギ派歌人、の孫として生まれた私は、幼い頃から祖父の話を聞いて育ちました。観風の妻である祖母の佐和と私は、亡くなるまで一緒に暮らしておりましたし、観風の息子である父も油絵を趣味とし、母は絵画や古典文学に親しんでいたこともあり、家庭の中には芸術や文学を大事にする雰囲気がありました。家庭で常に「観風先生」と語られる祖父は、一度も会ったことのない私にとって遠い存在でしたが、尊敬の気持ちは自然と育っていました。
私は中学生になると、国語や美術の授業で習う人物の中に、祖父と親交のあった人の名前がたくさん出てくることに驚きました。また、教科書副読本の文学史や日本史の資料集などに、祖父の画を発見して驚くこともありました。
祖父は1894年(明治27年)生まれ。人生の最盛期に戦争が重なりました。当時の日本の国民全てがそうだったように、祖父も芸術家として存分に活動する事ができない、制約の多い時代を生きていました。ですが、現代の私が驚嘆するほどに深く学び、多くの作品を残し、必死で生きていたのです。その足跡を残してあげたい、と思っています。
より高い意識で人格を磨きながら生きようとする、その魂をもって、歌を詠み、万葉集の研究、書、日本画に没頭する。芸術を分野で区切らず総合的に極めながら、独自の芸術世界を作り上げようとする。まさにアートの真髄に触れている気がしてなりません。これを現代にふさわしい形で、多くの皆様のお目にかけ、楽しんでいただくのが、孫の私の役目だと思っております。
アトリエ りざんの展望
令和は、人々が心を美しく寄せ合うさまを表し、英語では “Beautiful Harmony” 美しい調和 と訳されます。日本最古の歌集『万葉集』は身分の別なく集められた4500首余りの歌の集まりです。それは、令和の理想とも言えましょう。
やまとの國は調和のくに、日本は和を尊ぶ美しい国です。
万葉集に描かれた世界は遠い祖先の生き様ですが、人の気持ちは時代を経ても変わらないということがよくわかります。 令和の時代は、私達の祖先が感じていた心情に触れ、和の国の美しさを再認識し、日本の喜びを味わう大きなきっかけとなりました。
令和を機に設立いたしましたこのWebギャラリーが、その一助となりましたら大変うれしく思います。
2019年(令和元年)5月1日 令和の初日
奈良県立万葉文化館にて。
右から3番目は稲村和子館長。
そして、、、私には夢があります。
すでに完売となっている、両親の再編した『万葉集画撰』を新しい形で再び出版すること。
祖父の作品を、より多くの皆様に楽しんでいただけるよう東京都内で展覧会を開くこと、です。
今後はWebギャラリーを充実させていきながら、観風の作品との出会いの場をつくり、いつか夢が実現できるよう、孫としての役目を果たしていきたいと思っています。