Atelier

父、観風

〜 観風の息子、大亦博彦に聞く 〜

観風の息子である博彦によると、「観風は独自の美意識を持ち続けた人」。羽織袴にステッキを愛用し、身辺の調度品、ふるまいにも美を体現する人だったそうです。

博彦は、1934年(昭和9年)生まれ、観風が40才の時の子供です。観風は戦後の混乱期に53才で亡くなりました。博彦が中学1年、13才の時です。博彦は戦争中に一年間の集団疎開生活を経験しましたので、観風との記憶はわずか十年にも満たないものです。その中で印象に残っている「父、観風」の記憶を語ってもらいました。

大亦観風(目黒の家にて) 目黒の家にて

私達が住まいとしていた、目黒の自宅の二階に画室がありました。観風は制作中の画室には誰も入れず、一人真摯に芸術に向き合っておりました。画業に加え、書もたしなみ、歌人としての活動、文章の寄稿もしておりましたので、朝から画室に籠もりきりの日がほとんどでした。

絵を描いている姿を一度も見たことがありませんが、時折、制作を終えると画室に招き入れ「どちらの富士山が好きか」などと描き上げた2枚の絵を見せて尋ねることもありました。

制作を終えた夕方には散歩に出かけ、一緒に目黒不動の前で手を合わせ、お気に入りの画材屋まで行ったことを覚えています。

自宅の庭の池の周りには、楓や松などたくさんの樹木がありました。庭の落葉を掃き清めた後で、樹をゆらして数枚の紅葉を落としてから、子どもに千利休の話を聞かせるような人でした。

非常に博学で、文化に造詣が深い人でしたが、その努力を人に見せる人ではありませんでした。良寛の書を愛し、真っ黒になるまで繰り返し繰り返し練習した何枚もの新聞紙は、練習の熱心さを伝えていました。

大きな本棚があり、「本をたくさん読みなさい」とは言われていましたが、「勉強しなさい」とは一度も言われたことが無く、何かを強いたり、声を荒げたりすることのない父でした。

目黒の自宅にて 画悠会 文楽を演ず 目黒の自宅にて 画悠会 文楽を演ず

近くの目黒大圓寺のご住職、福田実衍(じつえん)様は、芸術に深い理解をお持ちの方で、大圓寺は時の文人墨客が集まるサロンでもありました。観風もその一人で、最も親交があったのは同じくアララギ派の歌人斉藤茂吉さんでした。切磋琢磨し、お互いの作品に赤を入れたものが、今も大圓寺に残っています。

観風は大圓寺で絵の教室を開き、実衍住職は絵を習っていました。大圓寺にある「比叡の草花」という絵はがきは実衍住職の手になるものです。

自宅でも絵や歌の会合を開いていたので、よく人が集まっていたことを記憶しています。画家の川口軌外さん、彫刻家の建畠大夢さんは親友で、家によく来ていました。また、能の喜多流の謡もたしなんだので、能の仲間も集っていました。絵の教室「画悠会」の毎年の集合写真から、戦争に巻き込まれていく前の、芸術の道を邁進していた頃の様子が記録されています。

戦争が激しくなると、博彦は集団疎開に行くことになりました。観風は年齢的に招集されるほど若くなかったので、町の防災の中心的役割を担い、町の親分として頼りにされていたようです。山梨県に疎開中、栄養失調で倒れる寸前だった私に、観風は一度だけ会いに来た事がありました。笛吹川を見ながら二人とも無言のまま、おにぎりを食べた時のことを、今でも思い出します。「これが最後かもしれない。」という思いをかみしめていたのです。

作品が世間で注目され、最も芸術家として力をつけていた時期に戦争が重なってしまったことは大変気の毒なことでした。戦後、いよいよこれから、と精力的に画業に取り組もうとしていた矢先、観風は病に倒れ、1947年(昭和22年)10月22日にこの世を去りました。

戦時中の国防服を除いては、いつも和装で、スケッチに行くときも羽織袴姿だった観風。 ステッキを愛用し、美意識の高かった観風。穏やかで人がいつも周りに集まっていた観風。

学び続け、芸術の我が道を突き進み、思想、生き方そのもので芸術を体現しようとしていた観風の53年の生涯は、決して長くはない人生でしたが、深く充実したものであったはず、と信じております。

観風の『万葉集画撰』にかけた思い

観風の最晩年の作品は、1940 年(昭和15年)皇紀2600年の奉祝で橿原神宮に献納するための『万葉集画撰』でした。

皇紀2600年の奉祝は、初代神武天皇から2600年を昭和天皇を中心に祝う、近衛文麿内閣主催の国家行事でした。当時日本は日中戦争のさなかでしたが、日本国中で年間奉祝行事があり、神武天皇即位の建国の地、奈良県橿原神宮は大整備の上式典が行われ、国民皆が「皇紀2600年」という歌を歌えるほどだったそうです。
まさに国をあげての奉祝に、観風が橿原神宮に献納するために、全精力を傾けて『万葉集画撰』を描きあげたのです。日本の心である『万葉集』の歌を71画面で描いた連作の『万葉集画撰』制作には、観風が命をかけて取り組んだことがうかがえます。

観風は、それまでも、芸術に対して最善を尽くす人でした。どの作品にも、入手できる限りの一級品の岩絵の具(日本画の絵の具)と墨を使い、真摯に作品と向き合う姿勢を貫きました。

経畳みの絵巻物として仕上げられ、橿原神宮に献納された『万葉集画撰』の制作時は、物資が欠乏していく時代。その中にあって、一体どのようにして調達したのか、最高級の岩絵の具、墨、鳩居堂の和紙を使っておりました。80年経った今でも、作品が鮮やかな色を保っているのは、当時一切の妥協なく、心血を注いで作品を作り上げた結果といえます。

また、錚々たる文学者、佐佐木信綱、折口信夫、斎藤茂吉、武田祐吉、澤瀉久孝に万葉歌の解説を依頼していました。画と万葉集の総合芸術を作り上げようと、全力を注いでいたのです。

観風は、『万葉集画撰』をほぼ白黒の印刷で、1943年(昭和18年)錦城出版から出版しました。箱入りの限定版でしたが、紙が不足していた時代、わら半紙のような紙で印刷するのが精一杯でした。

それ以降、戦況はいよいよ厳しくなり、日本は第二次世界大戦の波に飲まれていきます。命を守ることがすべてだった時代です。精魂込めて描き上げてきた作品は戦禍で散逸しました。
しかし、1945年(昭和20年)に戦争が終わると、観風は今までを取り返そうとするかのように、情熱的に芸術の道を邁進する意欲が伺えます。亡くなる前年の1946年(昭和21年)には抒情短歌社の主宰を請われて就任、「抒情短歌」を創刊。さらに「続万葉遺跡行脚」「逸庵閑語」の連載を開始しました。

観風のめざしていた芸術世界

画家として、歌人として、万葉集の研究者として、美術界のみならず文学界にも幅広い交友関係をもっていた観風の存在は特異なものです。100年前の時代の人ですが、複数の分野からのアートの探求、分野を融合しながら独自の芸術世界を作り上げていく取り組みは、非常に現代的です。

万葉集をこよなく愛し、万葉故地へのスケッチ旅行には、万葉人に敬意を表して必ず羽織袴で訪れるなど、多彩な芸術活動を通して、また美意識を高くもった生き方を通して、観風は独自の画風を確立しました。

観風の記録をたどると、精神性の気高さを芸術においてとても大切にしていたことがわかります。

若い頃に学んだ洋画の写実主義的な描写力を基礎に、新南画の影響を受けて明るい色彩を用い、到達したのは、のびのびと穏やかな独自の南画風の作風です。観風は南画の画家ではなく、その後に発生した新南画の影響を受けた画家ですが、歌を詠み、『万葉集』の研究をし、書をし、日本画に没頭し、芸術を分野で区切らず、総合的に極めながら、人格を磨く生き方を目指していた事も、南画の思想と同一です。

南画の思想の一つに、「優れた絵画は優れた精神と人格によって生み出される」というものがあります。そして、もう一つ「詩書画一致」という思想もあります。詩の世界を絵画化するには、詩、ふさわしい書体、画、これらが調和していることが大切、という考えです。

晩年の作品となった『万葉集画撰』は、書と画が一体化して『万葉集』の世界を表現したもので、まさにその思想を感じることができます。

賛仰三昧

また、観風は篆刻作家山田正平さんの落款を愛用しておりましたが、その一つに「賛仰三昧」(さんぎょうざんまい)という落款があります。

「賛仰」とは、聖人の道やその徳を深く研究し、尊ぶこと。 「三昧」とは一心不乱に取り組むこと。

それらの意味からも、真摯に向き合う、観風の思想を感じることができます。

プロフィール

大亦観風

大亦観風
おおまたかんぷう (1894年 – 1947年)

1894年(明治27年)和歌山市生まれ。郷里で洋画を学び、画家を志して上京後、太平洋画会研究所、日本美術院洋画部で学ぶ。その後日本画に転向。寺崎広業、小室翠雲に師事。
洋画で培った写実主義描写力を基礎に、新南画の影響を受け、明るい色彩の穏やかな独自の画風に到達する。

歌人でもあり、アララギ派小泉千樫に師事。『万葉集』に造詣の深い日本画家。

又、書もよくし、書・画一体の作品『万葉集画撰』1940年(昭和15年)で注目され、同年の「皇紀2600年の奉祝」で橿原神宮に奉納された。

画家としての最盛期に戦争が重なり、戦後の混乱期の1947年(昭和22年)に53才で病没。

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略歴

1894年(明治27年)- 1947年(昭和22年)

1894年(明治27年) 9月27日、和歌山市広瀬舟場丁に生まれる。本名新治郎。
太平洋画会、日本美術院洋画部出身。
本画に転じ、寺崎広業、小室翠雲に師事し、日本画を研鑽。
独自の画風に到達し個人展を東京、大阪にて5回発表する。
大東南宗院委員。
短歌はアララギ派小泉千樫に師事。
歌誌『青垣』創刊同人。
1946年(昭和21年) 叙情短歌社を興し歌誌『叙情短歌』創刊主宰。随筆、評論の執筆多数。
1947年(昭和22年) 10月22日、53歳で目黒にて病没。
1978年(昭和53年) 和歌山文化協会より先覚文化功労者顕彰を受ける。

代表作品

  • 「寒椿」 永平寺傘松閣天井絵
  • 「紀州行脚日記絵巻二巻」 和歌山県立近代美術館蔵
  • 「良寛の図」 糸魚川歴史民俗資料館蔵
  • 「万葉集画撰」71連作 奈良県立万葉文化館蔵
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