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観風の『万葉集画撰』にかけた思い

観風の最晩年の作品は、1940 年(昭和15年)皇紀2600年の奉祝で橿原神宮に献納するための『万葉集画撰』でした。

『万葉集画撰』の初版 『万葉集画撰』の初版

皇紀2600年の奉祝は、初代神武天皇から2600年を昭和天皇を中心に祝う、近衛文麿内閣主催の国家行事でした。当時日本は日中戦争のさなかでしたが、日本国中で年間奉祝行事があり、神武天皇即位の建国の地、奈良県橿原神宮は大整備の上式典が行われ、国民皆が「皇紀2600年」という歌を歌えるほどだったそうです。
まさに国をあげての奉祝に、観風が橿原神宮に献納するために、全精力を傾けて『万葉集画撰』を描きあげたのです。日本の心である『万葉集』の歌を71画面で描いた連作の『万葉集画撰』制作には、観風が命をかけて取り組んだことがうかがえます。

観風は、それまでも、芸術に対して最善を尽くす人でした。どの作品にも、入手できる限りの一級品の岩絵の具(日本画の絵の具)と墨を使い、真摯に作品と向き合う姿勢を貫きました。

経畳みの絵巻物として仕上げられ、橿原神宮に献納された『万葉集画撰』の制作時は、物資が欠乏していく時代。その中にあって、一体どのようにして調達したのか、最高級の岩絵の具、墨、鳩居堂の和紙を使っておりました。80年経った今でも、作品が鮮やかな色を保っているのは、当時一切の妥協なく、心血を注いで作品を作り上げた結果といえます。

また、錚々たる文学者、佐佐木信綱、折口信夫、斎藤茂吉、吉川英治、武田祐吉、澤瀉久孝に万葉歌の解説を依頼していました。画と万葉集の総合芸術を作り上げようと、全力を注いでいたのです。

観風と親交の深かった文学士、
画家が寄せた文章を読む

観風は、『万葉集画撰』をほぼ白黒の印刷で、1943年(昭和18年)錦城出版から出版しました。箱入りの限定版でしたが、紙が不足していた時代、わら半紙のような紙で印刷するのが精一杯でした。

それ以降、戦況はいよいよ厳しくなり、日本は第二次世界大戦の波に飲まれていきます。命を守ることがすべてだった時代です。精魂込めて描き上げてきた作品は戦禍で散逸しました。
しかし、1945年(昭和20年)に戦争が終わると、観風は今までを取り返そうとするかのように、情熱的に芸術の道を邁進する意欲が伺えます。亡くなる前年の1946年(昭和21年)には抒情短歌社の主宰を請われて就任、「抒情短歌」を創刊。さらに「続万葉遺跡行脚」「逸庵閑語」の連載を開始しました。

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観風と親交の深かった文学士、画家が寄せた文章

万葉歌の解釈を絵でどのように表現したかを、観風本人が解題として記し、『万葉集画撰』71連作は、経開きの絵巻物として完成されました。
そして、万葉歌の解説は観風と親交のあった文学者、佐佐木信綱斎藤茂吉折口信夫吉川英治、武田祐吉、澤瀉久孝に依頼し、『万葉集画撰』出版(あるいは、展覧会の案内状の発行)に際しても、文章を寄せられていました。
『万葉集画撰』から、その文章の一部をご紹介します。

佐佐木 信綱(ささき のぶつな)

佐佐木 信綱(ささき のぶつな)

萬葉集画撰序歌

たたへうた
わが山川よくうつせりとやまとの大國みたまうけたまふらし
わがどちをよくゑがけりとたまがよひ萬葉人らゑみつつあるらし

佐佐木信綱氏の文章より抜粋

「わが國古典の双璧といへば、萬葉集と源氏物語であるが、源氏物語には古来有名なうるはし絵巻物があるが、萬葉には繪の入った本は絶えて無い。これはまことに遺憾なことである。」以上は昭和二年に自分が公にした萬葉漫筆の一節であるが、しかるに十数年を経て、大亦観風画伯によって、萬葉集の繪巻の公にされるといふことは、深くよろこびに思ふところである。

昭和十七年十二月 文学博士 佐佐木信綱

顔写真、経歴 引用元
佐佐木信綱 / フリー百科事典『ウィキペディア』より
最終日付: 2020年6月18日 (木)
URL: http://ja.wikipedia.org/

齋藤茂吉(さいとう もきち)

齋藤茂吉(さいとう もきち)

『万葉集画撰』序文

 大亦観風画伯の、萬葉集の歌を題材とした繪画の一大連作を観たるに、これはまた歌とは別様の驚嘆すべき味ひのものであって、萬葉の歌と不即不離の表現のうちに、萬葉精神の滲透をうかがふことが出来るというのは、画伯は現代に於ける萬葉歌人でもあり、加之約半年を費して萬葉地理行脚を遂げ、故実有職に通ぜるほかに、先進の萬葉註釋を渉猟せられた結果に依るのであって、それだけの要約が既に自分たちの尊敬措く能はざるところのものである。その一つ一つの繪画に就いてはもはや自分如きものの容喙を要せぬ。

 本書の發刊に際し、僭して一言を附し以て序となす。

昭和癸未春 齋藤茂吉

顔写真、経歴 引用元
斎藤茂吉 / フリー百科事典『ウィキペディア』より
最終日付: 2020年6月18日 (木)
URL: http://ja.wikipedia.org/

折口信夫(おりくち しのぶ)

折口信夫(おりくち しのぶ)

『順禮の心』(順礼の心)

 大亦観風さんは歌人としては、故人古泉千樫の系統に属している。絵事を解せぬ私が、氏を知っているのは、唯この一事に繋がっているのである。其だけに、他の多くの画人の作物よりも、氏の絵になじみ深さを感じて来た。今度描きあげられた万葉絵巻を見て、一層その親しみに故あるを覚えた。

 およそ、百に余る画面が、ことごとく単に古典に依拠したろまんちっくな作風に止らなかったのも、私にとっては快い思いである。底に正しい写実の精神が満ちており、しかも禁断の爽やかな感覚が流れている。これはもとより画人としての工夫によるものであろうが、根岸派の流れを汲む文人として、久しく写生道にいたついた事も、興っているに違いない。

 この種の絵としてもっとも推奨してよいことは、一つ一つが、体験から出た構成であって、単なる架空の作風ではないことである。だから思う。この絵巻の画人の、順禮の如き労苦と、敬礼の心とをもって、万葉の古跡を回った日頃ーを。

 時としては、雷丘行宮の激湍に、一つの龍を配した如き放胆は、ほほ笑ましく我々の心を柔らげてくれる。又時としては、因果経絵巻の最も保存よき断篇に接するような、目ざましい色彩に出会うこともある。或いはまた、御物にある狩猟図から奔り出た空想を見ることもできるのである。

 こういう画面の逢著する毎に、我々はまれにのみ行き遭う知人が、新しい健やかな相貌をもって、前に現れたような懐かしみを覚えるのである。

 この一巻、観風氏の長く潜めた情熱の発露であって、また一部万葉学徒、歌人の言おうとするところに代った、無言の表情と言うこともできるのである。

顔写真、経歴 引用元
折口信夫 / フリー百科事典『ウィキペディア』より
最終日付:2020年5月2日 (土)
URL: http://ja.wikipedia.org/

吉川英治(よしかわ えいじ)

吉川英治(よしかわ えいじ)

『大亦観風氏の万葉集画撰展に贈る』

 久しく消息もなかった大亦君が一日瓢乎として小宅に姿を見せた。抱えていた画嚢を解いて無慮百葉に余る作画を応接間いっぱいに展示し、ここ数年は何ものも顧みず万葉の歌蹟をたずねて、その一歌一唱の心を酌み、万葉文化の様相を深くさぐり、山林水態のあとを写生して、ようやく意に充つものだけを、画房に帰ってから再び彩管にのばして獲たものが、すなわち近業のこれであると云われたには、いつもながら君の清廉な精進と、わき目もふらない創作良心の純一な態度に敬服せずにいられなかった。

 この両三年間の画壇といえば、誰もが知るとおり言語道断な新画景気というものに、後進先輩のべつなく惑酔濫作していた期間だった。その間を独り崇高な民族精華の歌蹟に画魂をささげて、黙々、塵外に勉強していたような人が果して幾人あったろうか。

 それだけでも、大亦君の人格と、画業に対する純清な信念とは、無言に証明されていると思う。

 いやもっと明らかな事実は、この佳年の佳秋、われら祖々の匂いや彩や諸声もまざまざと、ここに展観された幾十作の万葉頌鑽の作画そのものである。僕等が万葉を愛誦し、万葉に憧憬を抱くことは、なお自己の血液をとおして自己の遠祖を慕うがごとく本能的なものであるが、またこのようにまざまざと、その彩に、その象に、その律動に、その音階に、画として表現されたものに接したことはなかった。

 大亦君の画業は、大きな意義を持つ。のみならずその構図、線描、色感などの筆技にわたる美的鑑賞の価値からいっても、往年の君とは、格だんな進境を示されて来たことを認めないでいられなかった。画評としても猶多くを述べたいが、今はもう君に対して僭越をさえ感ずるからやめておく。ただ一観賞者として、近来いろいろな画展もあったが、こんなに興深く清々しく、しかも意義のある展列に接したことはないということだけを正直に云っておく。

佳年明治節の朝、記
注:1940年(昭和15)11月3日 朝

顔写真、経歴 引用元
吉川英治 / フリー百科事典『ウィキペディア』より
最終日付:2020年8月26日 (水)
URL: http://ja.wikipedia.org/

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